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2021.10.19Vol.515 何がダメ、なぜダメ

 先週の木曜日、前回ここで紹介した週1で教えに行っている学校の先生から珍しく教室に電話が掛かって来た。初めてかもしれない。日頃から物腰柔らかなのだが、いつにも増して丁寧に「情報を共有したくて」と前置きされた瞬間にピンと来て、「あっ、親からクレームが来たということですね?」と返した。電話を切った後、自らの発言を振り返って「面白いな」となった。なぜなら、日頃「クレーム」という言葉を絶対使わないのに、スッと出て来たからだ。無意識のうちに、志高塾の内と外を区別していたのだ。私がそうなので、他の講師から「こういうクレームが親御様からありまして」ということもない。私に情報が上がってくるときは「こういう意見(こういうこと)を言われまして」といった形になる。開塾当初は、少々力んでそのようにしていた。企業で働いていた頃は「クレーム」は社内の日常用語だったので、その感覚から抜け出す必要があった。その言葉を使うことで「文句を言われている」という感情が少なからず芽生え、指摘された事実をきちんと受け止められなくなってしまうからだ。「受け止める」と「受け入れる」は似て非なるものである。「受け入れる」であれば、相手の気を静めるためにとりあえず謝る、というようなその場しのぎの対処になりかねないが、「受け止める」は、投げられたボールをきちんとキャッチすることである。そして、相手が取りやすいように胸をめがけてメッセージを込めて投げ返す、となる。そういうことを繰り返すことで、親御様ごとの距離感やどのようにボールのやり取りをすればいいのかなどが少しずつ掴めてくる。話を戻す。その内容は、A君を授業中に私がいじっていて、そのことに疑問を抱いたB君が親に話し、そこから学校に「ひどいんじゃないか」という話が来たという流れである。それを聞いて、「A君の親からじゃなくて良かった」となった。もしそうであれば、私自身が彼のキャラクターを読み間違えて、知らないうちに傷つけていたことになるからだ。このようなことがあったときの学校の対処の仕方として、本人に直接事情を聞いたところ、A君は「何とも思ってない」と答えたとのことである。ちなみに、前回の「日頃は私に向かって無駄口を叩く生徒もくねくねしながら自信なさそうにむにょむにょ話していたので」が正にA君のことだったのだ。一連の説明を受けて、「分かりました。A君自身が良くても、それを聞いて嫌な気持ちを抱く生徒がいるということなので今後気を付けます。いらない気を遣わせて申し訳なかったです」と謝罪した。このこともやはり受け入れるではいけない。授業中の雰囲気が良くなるようにと考えて、A君とそのようなやり取りをしていた面もあるので、そういうことを完全に排除して淡々と授業をすれば良いというわけではない。また、会話の中で、「松蔭先生と生徒たちとの間で信頼関係が築かれているのはよく分かっています」という言葉をいただいた。20代の頃の私ならかなりの確率で、それを捕まえて「私もそうだと思っています。先生もそうなのであれば、私は悪くはないので、そのB君の親をきちんと説得してください」と詰め寄っていたはずである。少し大人になったことを実感した出来事であった。まあ、「大人になる」という表現は好きでないのだが。
 中学生以上が主に取り組んでいる意見作文のテーマの1つに「あなたの周りの事柄で、もう少し制約があったら、逆に制約がなかったら、もっと良くなる、ということについて、なぜ良くなるのか、が分かるように、四百字程度で作文をしなさい。」というものがある。これに対して、生徒たちが出すのが大抵は校則に関わるもので、「学校でのスマホ使用の制限」、「学校指定のカバン(重くて使いづらい)」に対するものが多い。「もう少し制約があったら」の方の意見はほとんど出てこない。制約は必ずしもマイナスではない。たとえば、『コボちゃん』の作文のルールがそうである。つなぎ言葉を一文に必ず一つ入れることによって前後の文の関係を考えることになり、1つの作文内で同じ言葉の重複を禁止することによって、いろいろな表現を使えるようになって行くからだ。
 彼らの気持ちはよく分かる。私も子供の頃、親や先生から禁止されていることに「なぜダメのか?」と説明を求めたことは何度もある。だが、思い返してみると、納得が行く決着を見たことはただの一度もない気がする。だから、生徒たちにも受け入れろと言いたいのではない。中学生の頃、学ランの襟首に白いプラスチックのカラーを付けることが嫌で嫌でしょうがなかった。校則を変えようと動いたが無理であった。後にも先にも、自分の体に直接プラスチックが触れる状態で過ごすことなどないので、違和感があって当然なのだ。先生たちの言い分は「学ランは頻繁に洗えないので、清潔さを保つために必要」というものであった。当時は、「清潔かどうか何てどうでも良い」ということを主張していたような気もするが、もう少し私が目的志向であれば、「確かにおっしゃる通りです。では、あれを代替する黒い布(黒い学ランに白は目立つのでそれも嫌であった)のようなものを付ければよろしいでしょうか」というようなもう少し生産的なやり取りができたはずなのだ。
 「何がダメ」に反抗するだけでは自分が期待する変化は生まれない。「なぜダメ」の説明を求めれば、大抵は相手を意固地にするだけで終わる。まず、「何のタメ」に行動を起こそうとしているのかを自身で考えることである。そうすれば、「なぜダメ」が少し客観的に見えてくる。そして、この「何のタメ」は、そのこと自身に留まらない。生徒たちにも、息子たちにも、折角なんだから経験を積む機会にしな、ということをよく伝える。要は「将来のタメ」ということである。ただ怒りをぶつけるのではなく、相手の意向を汲んだ上で、自分の希望を叶えるために打てる手を打つ。思い通りにならないことはたくさんあるだろうが、そのようなプロセスを踏んだ上での残念な結果であれば、それは間違いなく将来の糧となる。
 作文の添削を通して、上のようなメッセージを生徒たちに繰り返し伝えて来たことで、先のような電話を受けてもまったく腹を立てなかった。彼らに少しでも良い授業を提供するタメ、というのが私の中にあったからだ。そして、このような経験は志高塾の生徒たちのタメになるはずである。

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